”べき論”と”思い込み”で自分の首を絞めた話(家庭・職場の類似例)

今日朝からなんだかものすごく悲しくなって、泣いた。

その原因を自分の中で色々考えていると、家庭での出来事と職場での出来事が似ている要素があることに気付いたのでメモしておく。(こんな風に自分はストレスをためて爆発するんだな、の気づき)

 

今回のストレスはきっとこんな感じ。

・最近旦那氏の仕事が忙しい(事実)

・何も言われなくても自分が昼夜共にご飯を作る事が多くなった(事実)

・特に旦那氏からは頼まれていないが、時間の余裕や今の生活全体のバランスを考えると当然自分が作るべきものである(べき論)

・そもそも自分がご飯を作りたくないと思うことはおかしい(思い込み)

・自分がご飯を作ることをどこかで期待されているに違いない(思い込み)

・ご飯も作らず、働きもしないなんて自分の生きる価値はない(極度な思い込み)

という感じに事実から派生した自分の思い込みとべき論で苦しくなっていった。

そこで、「ご飯を作らない」と宣言してみたが、罪悪感で心が死んだ。

 

「たまには一緒に御飯を作って欲しいな〜」とか「作るのめんどくさいから出前にしよう〜」とライトに言えたら良かったが、ただでさえも忙しい旦那氏と、現状専業主婦の私。

お願いすること自体がおこがましかったし、普通に考えて(?)おかしいことだと思ったから言えなかった。

そして、爆発するまでご飯を作ることは楽しいし、旦那氏の役にたてて嬉しいと本当に思っていた。

でも、気付いたら自己否定に溢れ、料理も嫌になってしまっていた。

 

これに似たことが職場で爆発する前もあった。

・職場でスタッフの数が減っていった(事実)

・自分以外のスタッフは残業がとても多くなっていた(事実)

・職場の雑務や突発的な利用者対応は私が全てやるべきである(べき論)

・最年少の自分が出来ることはこれくらいしかないし、どこか皆に期待されているに違いない(思い込み)

・そもそもこれくらいの事できないなんて支援者失格だし、この職場に存在する価値がないのではないか(極度な思い込み)

こんな感じに事実からどんどん逸れて自己否定しストレスになっていった。

爆発するまでは、支援も楽しかったし、役にたてて嬉しいと思っていた。

気付いたら何もかも嫌になってしまっていた。

(職場ではこれに加えて色んな事が積み重なっていたので、これが一番の原因ではないかもしれないが。)

 

旦那氏も職場の人も優しくて「無理にしなくていいよ」「出来る範囲でやってね」と言ってくれてた。

でも、その自分の良心に「やる・やらない」が任されている状態が、変にプレッシャーに感じてしまって「やらざるを得ない」になっていったのだと思う。

だったら、まだ「やってほしい」とお願いされた方が気持ち的に楽だったし、もしかしたら断れたかもしれない。

常識的に考えて(?)自分がやったほうがいい事を、自分の気持ちを理由に「したくない」と言えなかったし、「助けて欲しい」と言えなかった。

そして、やることは料理も雑務も難易度は高くないことだったけど、「やらないといけない」が積もってしんどい気持ちが大きくなっていった。

「やっぱり出来ない」と言うことが、相手をがっかりさせてしまうんじゃないかと怖い気持ちがつきまとった。

 

今あらためて事実と自分の主観や感情を整理してみると、事実はすごく少ない。

旦那氏の気持ちも職場の人の気持も確認しないままに、自分で勝手に潰れていってるだけだなと思った。

 

私は”一緒に”という言葉がとても好きだ。

一番ご機嫌に長く務めた職場の上司はよく「一緒に頑張ろう」と言ってくれた。

旦那氏もよく「一緒にやろう」と言ってくれる。

仮に9割私がやることになっても「一緒に」と言ってくれるだけでかなり心が楽になるものだ。

 

今日私は何も言わずに泣いていたが、旦那氏は一緒にごはんを作ってくれた。

ミーティングとミーティングの間に買い物にも行き、料理の下ごしらえまでしてくれて本当にありがたかった。

次からはもっと上手にお願い出来たらいいなぁ。ごめんね。