基本的に多様性に理解がない

前回「会社にうまく存在できない」ということをちらっと書いたが、その原因になっているものを少し書いてみようと思う。

 

前職のマネージャーに言われて確かにそうだなと思った言葉がある。

「君は、人一倍多様性に理解がないよね」

 

結構ショックだった。だって、多様性を活かす社会づくりに貪欲に取り組んでいる会社で、名ばかりとは言え準管理職をしていたからね。

 

もっとショックだったのは「いやいや、何言ってるんですか」と言い返せなかったこと。

 

確かに思い当たることがあった。

子供達には「ありのままの自分で生きればいいんだよ」と心の底から思いながら接していたが、大人に対してになると正直全くそう思えないのだ。

 

・どうして大人なのに、約束の時間に遅刻するんだろう

→約束をないがしろにしている、人の時間をなんだと思っているんだろう

・どうして大人なのに、論理的に考えられないんだろう

→どう考えても矛盾している考えに固執している人をみるとあきれてしまう

・どうして大人なのに、人が嫌な気持ちになることを平気で言うんだろう

→客からのクレームとか、スタッフからの意見とかだいっきらいだった

 

この「どうして」はそっくりそのまま自分にも返せと言いたいところだが、これを日常的に他人に対して思っていたら結構な勢いで、頻度で人に対して絶望する。

 

自分も完璧じゃないし、人はそれぞれ得意と不得意があるってわかっているし、感情のコントロールの方法も子供に授業で教えていたくらいには理解しているのに、どうしても怒りが我慢できなくなる。

 

いや、我慢していた時もあったけど(教室長時代)帰ってから滝のように泣いていた。

心が死んでいたから我慢はよくないし、結局我慢できてないわ。(?)

 

まあ、会社でうまく存在できない理由はこれが結構大きい。

そんなことはもうわかっている。

 

今までいた環境はたぶん、普通の会社より特殊だったと思う。

生きてきた基盤が違う人たちが多すぎた。これは他責かもしれないけど事実でもある。

 

そこを選んで、望んだ人間は私で。

少し打算的に自分が評価してもらえる会社を選んだ気すらするので、自業自得感が否めない。だから、毎日苦しい。自分が悪いから。

 

きっと、私がしんどいってことは一緒にいる人たちもしんどいんだよなあ。

ごめんね・・・。

文章に逃げる傾向がある

浪人生の時に、365日毎日ブログを書き続けたことがある。

 

何人か読者もついて、コメントももらって、なんとなく自分の「逃げ場」みたいなものだった。中にはその読者の人が私と同じ大学を目指してくれて、見事大学内で初めて会うなんていう奇跡的な体験もした。(めちゃくちゃ可愛い子だったから、男子だったらきっと恋に落ちていた。残念。)

基本的に私が文章を書くときは逃げたいとき。

現実世界から。人間の世界から。文章なら何を書いてもいいと思っている。

 

最近、また文章を書きたくなっている。前回は8か月前に書いていた。

8か月前は、新卒で入った会社から転職したいと思った時に、転職活動をはじめる前に副業したいと思い立ち、クラウドワークスでライターを始めたのがきっかけだった。

目の前の仕事で充実しているとき、人はほかのことに手を伸ばそうとはしないことが多いだろう。しかし、そうではないとき他のことをしたくなるってもんだ。

 

何が言いたいかというと、私は今とても手持無沙汰な人生を送っている。

 

またか、と思うし、短期的に感情の波がくるのはほんと人としてどうかと個人的に自分のスタンスは全然好きじゃない。一つの環境で腹をくくって、そのスキルを伸ばす、そこでまっすぐ道を切り開いていける人を心底うらやましいと思っている。

 

どうしてなんだろう。

 

社会課題に対してだれよりも熱く思いをもち、ビジョナリーで

行動にうつせる馬力もあるし、人とのコミュニケーションも円滑にとれる。

 

なのに、なぜ、「会社」という環境の中で自分がこんなにもうまく「存在できない」のか。

 

今日から改めて自己分析をしていきたいと思っている。

次の職場を早くみつけたいのだが、あまり焦りたくもないので。1~2か月くらいかけて自己開示とともにこのブログを書いていこうと思う。