アドラーの目的論で「適応障害」を考えてみた
昨日書いたブログを自分で改めて読み返すと、なんだか言い訳ばかりで恥ずかしくなった…。機会に恵まれてきているのに、なんだか台無しにしてきた気がした。
私はもともと自分の心のしんどさの原因を過去のトラウマに紐付けて考えることが多かった。
というか、過去のトラウマのせいにしたいと今も思っている。そのほうが自分を守れる気がするから。
そんな私がくらげ氏にオススメされてアドラーの「嫌われる勇気」を読んだ。
アドラーが「過去はなかったもの。自分の行動は全て自分の目的を叶えるために行っているものである。」「人間関係に臆することがなくなれば、もっと自由に生きられる」と言ってきて、ひどく衝撃を受けた。
後半については今日は割愛して、前半の目的論にのっとって自分の現状について考えてみる。
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私はなんのために適応障害になったのか、そしてなっているのか。
ずっと頑張らなくてもいい理由が欲しかったのかもしれないな、と思う。
あとは、どこかで自分は特別な存在だと思いたいのかもしれない。
昔から、失敗にすることに対しての恐怖心が人一倍強かったから(ここについては、また後日書く)失敗しないために、誰かから怒られないために、嫌われないためにとにかくリスクヘッジをして、常に最高のスタートダッシュを切って生きてきた。
だけど、新卒で入社して2年で教室長になって、ある程度社会人として最初の目標を達成してしまった瞬間に、プツンと糸が切れてしまったのかもしれない。
休みたいけど休めなくて、必死に頑張らなくてもいい理由を探した。
大好きな会社の中で「頑張れない自分」になるのが嫌で、頑張れなくなる前に転職した。
頑張らなくてもいい場所を探すために転職した。
転職しては「風土が合わない」とか「人と比べられるのがしんどい」とかを理由に、入っては辞めを繰り返し、病院に行き、診断をもらった。
それでも家に引きこもるのではなく、もがきながら転職を繰り返したのは、自分という人間のアイデンティティを守るためだったと思う。
今まで築き上げてきたものが崩れるのが嫌だった。
それでも、自分の心を守るために一回目の休職を決断した。
ここまで書くと、とにかくめちゃくちゃだし、会社からすると超迷惑だよなと思う。一方で、自分は自分のことが好きだし、自分のことを大事にしたいから頑張ってきたんだなとも思う。
そんなことを繰り返している中で、私はくらげ氏というパートナーを手に入れた。
「頑張らなくていいよ」って、常に言ってもらうことが出来るようになった。
もう頑張らなくていいので、まずは形から入ろうと思って、どれだけ周りが忙しくても定時に上がるようになった。
仕事の余裕があっても他の人の仕事を巻き取らずに適当に過ごす時間を増やした。
それなのに、結局「周りからどう見られているんだろう」とか「サボっている罪悪感やばい」とかの雑念は毎日付きまとったし、結局頑張らないで過ごすほうがしんどかった。
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今私はなんのために適応障害になっているんだろうか。
適応障害という、社会から少し外れている”特別さ”が今は自分を守るものになっているんだろうか。
なんかそう思うとすごく甘ったれた人間だなと自分に対して思う。
そして、誰かにしょーもないねと笑われそうな気もする。
私だってそんなもののために自分の生活リズムを崩したり、健康を脅かしたりしたくない。
それでもそうなり続けているのは、ずっと誰かに心配されていたいという深い願望があるからなのかもしれない。
この負のサイクルを断ち切る思考を休職期間中に見つけられると良いのだけれど。